1 調査概要

1.1 調査目的

 巨大科学の国際協力を推進している OECD Megascience Forum の1つの WG である Biological Informatics Working Group においては、脳・神経科学研究と情報科学を結合することの重要性、脳・神経科学研究における国際的協力の必要性、その情報産業及び医療に与える影響などが議論されている。

 OECD Megascience Forum Biological Informatics Working Group 勧告案 (以下 OECD 勧告案) においては、「Neuroinformatics」という概念を次のように定義している。

 「脳・神経科学研究と情報科学研究の学際的な結合であり、脳を"理解する"、脳を"直す"、脳を"創る"ための研究である。脳の理解に向けてのツール、アプローチを開発・適用するために、脳・神経系データに関して、収集、蓄積、解析、理解、共有を国際的に進める方法を確立するものである。このような、様々な分野からの複合的なアプローチは、医療、社会、経済分野において科学的、技術的発展をもたらすものである。」

 そして、Neuroinformatics の進展には、脳・神経系のデータベース、脳・神経系データ解析や脳画像処理、脳・神経系モデルの理論的研究及びシミュレーションを研究する各国の研究機関を結ぶネットワークが必要であるとしている。

 日本においては、脳・神経科学研究のデータベースやツールに関する具体的な研究情報ネットワークがなく、現状が十分に把握されていない。そこで、日本国内における Neuroinformatics に関する動向調査を行い、OECD 勧告案の方向を日本国内でスタートさせ、Neuroinformatics の研究情報ネットワーク構築を推進するための施策を検討した。

1.2 調査方法

 本調査は、図 1-1 の調査フローに従って行った。

research flow

図 1-1 調査フロー

1.3 OECD 勧告案について

 本調査では、OECD 勧告案の方向を日本国内でスタートさせ、Neuroinformatics の研究情報ネットワークを推進する施策を検討するものである。そこで、本節では、OECD 勧告案について紹介する。

 1996年パリの OECD メガサイエンス会議で提案、採択された OECD Megascience Forum Biological Informatics Working Group は、次の 2つのサブグループで構成されている。

  1. Biological Diversity Informatics
  2. Neuroinformatics

 OECD 勧告案は、この Neuroinformatics サブグループが提案している。以下は、勧告案の要旨である。

Neuroinformatics の科学的目的

 脳の構造、機能、発達について理解することは 21世紀における大きな課題である。

 Neuroinformatics とは、脳・神経科学と情報科学(計算科学)の学際的な結合であり、脳の理解に向けてのツール、アプローチを開発・適用するものである。Neuroinformatics は、医学、生物学、行動科学、物理学、コンピュータ科学、数学、工学の交点に位置する。このように様々な分野からの複合的なアプローチは、医療、社会、経済分野において科学的、技術的発展をもたらすものである。

 Neuroinformaticsは、脳を"理解する"、脳を"直す"、脳を"創る"ための研究であり、脳・神経系データに関して、収集、蓄積、解析、理解、共有を国際的に進める方法を確立する。

Neuroinformatics の影響

(1) 脳の理解

 Neuroinformatics は、脳とその回路の働きに関する理解を深めるものである。

 例えば、視覚系の神経回路において、パターン認識に関与する大脳皮質ニューロンの基本的な特性を知るということは、細胞応答、結合、結合状態の変化、生物物理学的特性に関する情報を集結し、自然画像から意味のある情報を抽出する回路機能を示すことが必要である。これらを理解することにより、生物システムとして、ロボット、マシンビジョン構築にインパクトを与えるものである。

(2) 皮質地図の理解

 大脳皮質には、構造、結合、機能が異なる 100以上の領野が存在しており、多くの領野は分離、同定をすることが難しい。Computational neuroanatomy により、この領域の分離精度を高め、さまざまな情報を皮質地図上に載せることが可能になる。また、皮質地図は静的なものでなく、イメージング能力を使って更新されていくものである。fMRI, MEG, EEG, ERP, PET, 光学イメージなどにより、脳の構造図の上に、脳の機能を描くことができる。これにより皮質地図の理解が進むと思われる。

(3) 脳の構造、機能、可塑性に対する理解

 脳に関する機能的、構造的、生理学的機構を示したり、空間的時間的な様々な方法で得られた脳イメージを含む多様な形式のデータを集約し、統一して扱うツールを提供する。例えば、高度なデジタル脳地図、データベースの実現を行うことにより、会話的に探索し、関心のある領域について調べることができる。これは、解剖学、生理学的アプローチに数学、計算、統計的アプローチを融合するものである。

(4) 細胞、細胞内機構レベルの理解

 細胞、細胞内機構レベルでの神経機構の理解に向けて、

  1. 細胞、細胞内機構の数理モデル構築
  2. 大量な従来知見の記述、蓄積、取扱のための DB 構築
  3. データ収集技術の発展

が期待される。

 生体細胞、神経回路における複雑で動的な相互作用の理解には、数学的、計算的、構成的アプローチは不可欠である。これらの方法は、行動から分子レベルでの構造と機能に至る神経科学研究の多くの分野で利用できるものである。しかしながら、神経科学分野では、このようは方法は根付いておらず、シミュレーション環境も浸透していない。Neurorinformatics 的アプローチはすでに利用できる段階であり、これによって真の理解に結び付くと考えられる。

(5) 情報科学、コミュニケーション科学、コンピュータ技術へのインパクト

 Neuroinformaticsは、実際に存在する頑強で効率的なデバイスとして脳に注目することで、情報技術分野への貢献が期待できる。ソフトウェアだけでなく、ハードウェアにおいても、情報の双方向の流れは影響を及ぼすだろう。特にロボット工学や知能機械に強い影響を与えるであろう。このようにNeuroinformaticsは,脳・神経科学と、情報、コンピュータ科学、ロボット工学、知能機械との接点となるもので、これら分野間の正のフィードバックの形成が期待できる。

(6) 健康と治療面への貢献

 脳の障害に対する理解、診断、治療法の提供を促進する。例えば、そのような情報は製薬会社によってより効果的な治療法の開発に役立てられる。

Neuroinformaticsの目標

 勧告案では、以下の三つの目標が鍵となるとしている。

  1. 異なる実験法によって得られたデータ、知見の統合。
  2. 解剖、遺伝子、計算学などの専門家が協力していく体制の構築。
  3. 脳機能理解の進展のため、研究成果の情報技術分野への応用。

 脳・神経科学研究分野では、多くの実験が行われているが、これらの結果は十分に普及しておらず、理論的な枠組のなかに統合されていない。

 Neuroinformaticsの第一の目標は、まず、脳・神経科学データの記述、蓄積、配布の最適な方法を見出すことであり、次に、脳・神経科学分野における理論、数理解析、実験データとの対応づけ可能なモデルの有用性に対する認知を深めることである。第二の目標は、脳・神経科学と情報科学の専門家が協力していく体制をつくることである。脳・神経科学と情報科学の交流は、互いの分野で正のフィードバックとして機能すると考えられる。第三の目標は、Neuroinformaticsの研究成果を情報技術分野に応用することである。神経システムのようにコンパクト、小電力、洗練されたシステムは、現在の技術では構築できない。"自然が持つ計算技術"の解明は、新しい情報技術を生み出すのである。

Neuroinformatics発展のために

 Neuroinformaticsは、一国の規模を越えたプロジェクトであり、Neuroinformaticsを発展させるために、国内外において、以下のような何段階にもわたるステップが必要である。

  1. Neuroinformaticsにおける統合、協調、標準化の推進
  2. データ収集、配布の新しいツール、アプローチの開発
  3. 神経システムの理論的、計算論的研究の新しいツール、方法、技術の開発
  4. National Neuroinfomatics Nodesの開設、運営
  5. 学際的なNeuroinformatics研究での国際協力の促進
  6. 研究成果の幅広い流通
  7. 将来のNeuroinformatics分野の研究者の教育、訓練

 そして以下に示すように、世界中に分散する施設、アプローチのネットワークの構築、協力体制の確立が必要であるとしている。

(1) 世界的なNeuroinformatics能力の確立

 世界中に分散する各施設では目標やアプリケーションが異なっていると考えられる。そのため、以下のようにNeuroinformatics能力を確立していく。

(2) 世界的な協力体制の確立

1.4 調査の範囲

 OECD勧告案では、Neuroinformaticsを「脳・神経科学と情報科学(計算科学)の学際的結合であり、脳を理解するためのツール、アプローチを開発・適用するものである。Neuroinformaticsの研究分野は、医学、生物学、行動科学、物理学、計算機科学、数学、工学の接点にあたる」としており、Neuroinformaticsの研究分野は広範囲である。本調査では、日本国内の現状を把握するため、以下のようにNeuroinformaticsのイメージを具体的に示し、調査範囲を定めた。

1.4.1 Neuroinformaticsの具体的イメージ

 本調査では、Neuroinformaticsの中心的研究を図 1-2に示すような脳・神経科学と情報科学を組み合わせた研究であり、①〜③のような研究活動と捉える。

① 実験で創出された電子化されたデータを蓄積し、自由に取り出せるようにネットワークを利用した共有化を図ること。脳・神経科学研究に関する実験データを電子的に集積し、研究者間で共有する活動。
例)MRI,fMRI,PET等の画像データを蓄積し、公開する。
② 蓄積・共有化された実験データに基づく数理モデルを構築し、実験によって観測された現象の生成機構をシミュレーション等で解明すること。実験とシミュレーションによって検証されたモデルは、標準モデルとして登録していく。
例)パッチクランプ実験データに基づきイオンチャネルのモデルを構築し、データベースに登録する。
③ 情報学、計算論に基づく新しい脳の理論モデルをコンピュータ上で仮想的に実現し、実験的に観測された形態、細胞応答などとモデルの特性を比較することにより、情報処理装置としての脳の本質的特性を解明する研究。
例)視覚体験に基づく視覚領野におけるコラム形成のメカニズムを解明する。

 さらに、広義のNeuroinformaticsでは、計測機器開発、脳機能のシミュレータ・エミュレータ開発、可視化ツール、分析ツール開発など、①〜③の活動を支援する研究分野や、①〜③の研究から創出された成果を、医療、情報学分野へ応用する分野が含まれる。

fig:1-2

図 1-2 Neuroinformaticsの枠組み

1.4.2 Neuroinformatics調査対象とする研究範囲

 想定したNeuroinformaticsのイメージから、Neuroinformaticsが対象とする資源(データ、ツール、モデル)の範囲、Neuroinformatics関連の研究者の範囲を確定するため、脳・神経科学研究の枠組みを図 1-3のようにおいた。

 図は、脳・神経科学研究領域において、分子レベルから個体レベルの研究への広がりを同心円で表現しており、各領域でどのような分野の研究が行われているかを示している。同心円の下部分には、脳・神経科学研究の様々な分野からモデル化を通して派生した情報科学の技術、または情報科学の技術を脳・神経科学研究に利用している研究分野を示している。

 本調査研究では、図 1-2のNeuroinformaticsの枠組みをこれらの研究分野にまたがって網羅的に調査するものとする。

fig:1-3

図 1-3 調査対象となる脳・神経科学研究の枠組み

1.4.3 Neuroinformaticsの資源

  1.4.1のイメージで示したように、Neuroinformaticsでは、実験から得られたデータの蓄積、データの加工・分析、数理モデルのシミュレーションといった研究が重要である。そこで、これらの研究で必要とされるものを、Neuroinformatics資源と定義し、下記のように、データ、ツール、モデルの3種類に分類し、調査の対象とした。

①データ分子レベルから行動科学レベルに至る脳・神経系関連のデータベース等。
②ツール データの獲得、解析、ビジュアル化、配布のためのツール等。
③モデル 脳モデルの理論的研究およびシミュレーションのための環境等。
1.4.4 Neuroinformatics関連の研究者

 Neuroinformaticsに関連する研究者を研究分野(図 1-3の調査対象となる脳・神経科学研究の枠組み)、及び扱う資源(1.4.3で示したデータ、ツール、モデル)を考慮して、図 1-4のような枠組みにおいて分類し、調査するものとする。

fig:1-4

図 1-4 Neuroinformatics関連の研究者